海が見たい

メモ置き場。自分の話をします。

2019/09/14 ガンジーの死に至る断食の話

視野が狭いことは、そうなるだけのことが起こったことは問題。

ではどう解決するのか。

分析ではなく、それが起こっている状態を、どうすれば望む方向へ向けることができるのか。

内発性にかける、という表現をされている。

子どもが虐殺されるような争い、怒りと憎しみ、それを扇動する環境、その中で大きな喪失を抱えた人間がいたとき、「争いが続く間は断食します」という言葉と行動で、自分の情動とは関係のない人間が死んでしまうかもしれない、という衝撃によって視野を広げる、というのは、賢さと、覚悟を感じる。

その問題の最中で解決を、命をかけて行なっている人間の深度を感じる。

三人の子が殺されたのだ、とても許せない、と訴える人間に、争っている側にも同様に親を失った子がいるだろう、三人をヒンドゥー教徒(半目する宗教)として育て、成人した彼らに「ありがとう」といわれたとき、あなたは理解ができるだろう、という、この返し。

向こうにも同じように子どもを殺された親がいる、ではないのだよな。

そんなことは分かっていて、それでもそれを認識の外に追いやるような感情が今起こっているとするならば、予想通りの事実を伝えたところで変わったりしない。知っていて無視(みていない、でも大差はない)をしているのだから。

同じ気づいて変わる、であっても、衝撃の量は大きいほど素に戻るというか、衝撃が大きいと一旦無になるというか、その無をつくることと、伝えたいことを話すのを同時に行う技術、よ、って感じ。

今ある問題の解決と同時にしないと解決しないのだ。理想を説くだけですべての人間が右へ倣えをするわけではない。そこに理想の理解度、以外の理由が関わっているなら。

分かっていないから、というだけでないなら。

分かっていてなお、それをなせない理由があるなら。

そちらの解決が先なのだ。

この視点は、なかった、と思う。

色々な人間がいる、という、口癖のように使うこの言葉を、本当の意味で理解できているのか?みたいな反省のわく気付きだった。

ガンジーの話に関しては、発信して、それに半目する人が現れて〜という流れではあるので、あなた発信していないじゃない、みたいなところはあるとして。

しかし、考えることはできる。そも考えていない人間にできる返答でもなかろう、みたいな気持ち。