2019/11/06
トイレで洗面台にしこたま頭をぶつけた。
瞬間的に出るのはさすがに痛い系の悲鳴なのだけれど、直後に(またこれか…こういうとこだぞ)となるの、日頃からモノにぶつかりすぎなのだよなぁ、というのをメモとして残しておこうかと思った。
昔から典型的な「歩いていたら電信柱にぶつかる」子どもだった。
ちょっと他に意識を取られたり考えごとをしているともうみえなくなる。視野が狭くなる、というのに加えて、空間認識をあまり得意としないのもありそう。
壁に階段に扉に置いてあるモノに、ガンガンぶつけるしぶつかっていると、現実の空間にいる自分のサイズを把握できていないのでないか、という不安感がわく。
現実にある身体の把握ができていないのでないか、という。自分の身体でないならなおのことである。
どちらかというと、集中すれば大丈夫だけどそうでなければ忘れてしまう、の方が近い気もするけど、客観データがないのでいかんとも。
そもそも歩いたり座ったり、飲み物の蓋やタブを開けたり、ボタンを押したり…あたりの日常の諸々の動作、失敗したりできなかったりすることも多いので、身体への伝達とか把握ヘタクソなのか…?という気持ちになる。
握力や筋力は数値としては普通にあるはずなのに、時折どうやっても飲み物の蓋が開かないのである。そのへんの知らない人に声をかけて開けていただいたりするのだけれど、これ、もしかしたらもうちょっと考えて対策をとってもいいシィングなのでは…?
最近、「みんなそう」だと思っていたことがそうではないらしいという可能性がややばかりあらわれ、日常のどれもそれもがエッこれは普通にあるよな…?みんなそういうことある上できちんと対策取っているのだよな…?違うの…?と疑心暗鬼になりはじめた。
自分の中であまりにも当たり前になっていて意識にすら上がらないようなアレソレ、こうやって思い出したときにはまとめておくと情報が集めやすいかな、と思ったのでする。
そういえば学生のころ、シャツのボタンが留められなくなることがあって、周りの人に留めてもらっていたりしたなぁ…ということも思い出したので追記。
芋づる式に当時そばにいた人はもちろんのこと、道ですれ違ったようなあらゆる人に至るまでにお世話になりすぎている記憶がよみがえってきて、返せるようにがんばろう、と襟を正しなおすなどした。善良な人間に生かされている人生だった。サバンナとか無法地帯だと真っ先に脱落するタイプの人間である自覚がある。
信号や走っている車の知覚すら抜けるレベルなので正直現代日本社会も危うい。事故死、経験的にもそれなりに近い距離で存在を感じるため、あんまり外に出たくないな〜みたいな気持ちはある。
慣れきっていてそういうものだと思っていたけど、対策可能シィングかもな、と思いはじめたので、とりあえずメモ取りで現状把握からはじめていく。